明良と儀者・赤頭
四世明良(小城按司)は同治二年(1863、文久3)に生まれ、琉球処分の明治十二年(1879)の時は16歳であった。三世志禮の記録は十数ページもあったが、明良の記録は大変短い。その全容を次に示します(漢文は資料を参照)。
幼名:眞山戸金、名乗り:朝眞、第一子、同治二年(1863、文久3)癸亥七月十九日生
父志禮
母眞蒲戸金
〔妻:眞鍋金、大里按司朝□長女〕
尚泰王世代
同治二年(1863、文久3)癸亥七月二十日、国王、国王祖母、国王母、王妃より各々御花一籠、御酒一双を賜る。
光緒三年(1877、明治10)丁丑八月廿三日、カタカシラを結う(烏帽子親は向姓浦添親方朝昭)。
赤地五色浮織冠を賜る。及び、東風平間切小城を名嶋として併せて賜る。儀者二人と赤頭二人を拝借する。朝廷より、国王より御花一籠と御酒一双を賜る。
明治廿九(1896)年十一月 日、陳情のため、福州へ渡航する父に随行する。
明治卅一(1898)年四月、陳情書を呈するため北京へ行く(隨員は金承陰、通訳は謝氏)。
明治同卅九(1906)年(光緒三十三年丙午)、旧4月9日逝去、享年四十四歳、五月廿五日に下渡之墓(琉球墓)に葬る〕
明治十年(1877)、国王より朝眞(向明良)は王子に次ぐ按司職(一間切の大名)に相当する「赤地五色浮織冠」を拝領し、東風平間切小城を名嶋として賜っている。東風平間切の按司地頭は父・志禮ではあるが、その一字(小城)を朝眞(明良)は名目上の領地とした(小城按司)。
小城を名嶋とした時代、明治十三年(1880)の東風平間切小城村の戸数は103戸で人口は414人(男205人、女209人)の規模であった。
小城按司の墓は小城集落の後背地にある「フサトモ」のうっそうとした杜の中にある。小城之按司御墓(こぐすくのあじうふぁか)として、字小城のムートヤーで祀られているとのことです。
拝領した儀者(ギーシャ)は按司家に仕えて公私の御用を行う者であり、赤頭(アクガミ)は従僕(しもべ)である。国王より拝借した「儀者二人と赤頭二人」とはどのような人物だろうか。小城按司と称しているが、義村御殿は首里にあり、小城に住居を構えていたわけではない。「儀者二人」は小城按司のそばに仕え主に公的な御用を担ったと考えると、小城村を管理したのは「赤頭二人」と思われる。
明良が拝借した儀者・赤頭とは、どのような人物なのだろうか?
義村家の家譜は教えてくれない。
(記:平成25年7月28日)