義村按司とは

 三世義村按司朝明には二つの異なる評価があるようです。

 その一つは、疲弊する東風平間切を救済したこと。

 その二つは、頑固党を率いて、明治政府の政策に反対したこと。

 いずれも歴史にある通りと思うが、今日の沖縄の人々にはどのように記憶されているのだろうか。

 ということで、ボチボチと語ってみようと思います。

 

 なお、気まぐれに書き込みます。順番が前後したり、誤字脱字・誤解があるかもしれません。気が付けばその都度訂正します。

 (改定:平成25年7月30日)

 

 義村家の始祖は尚周・義村王子朝宜(ちょうぎ)である。乾隆二十八年(1763年、宝暦13年)生まれで、琉球王国第二尚氏王朝の第14代国王(在位:1752-1794年)・尚穆王(しょうぼくおう)の第3子である。

 

 一世・尚周・朝宜は、最初勝連間切の按司地頭に任じられて「勝連」の家名を名乗っていた。しかし、「勝」の字が禁字となったため「義村」に改称している。これまでの慣習では任地先の間切り名を使って家名を名乗っていたが、「義村」は特別なのか、東風平間切の按司地頭に転任してもそのまま義村を名乗っている。一世・尚周・朝宜(ちょうぎ)は第15代国王(在位:1795-1802年)・尚温王の摂政をつとめた。二世・尚天保・朝顕(ちょうけん)は沖縄三十六歌仙の一人で歌人として名高い。四世・向明徳・朝義(ちょうぎ)は書道や絵画に優れ、空手家としても名をなした。また、空手家として有名な本部朝基とはいとこ同士である。昭和20年大阪空襲に遭い死去した。


 義村御殿は、跡継ぎがいないため度々養子を迎えて廃藩(廃琉)置県まで家系を維持した。三世向志禮・朝明(ちょうめい)は、廃藩(廃琉)置県に反対する頑固党として、清国に亡命して独立運動を展開したが当地で客死した。

 

一世・尚周・義村王子朝宜(ちょうぎ)

二世・向成謙・義村按司朝睦(ちょうぼく)

二世・尚天保・義村王子朝顕(ちょうけん)

三世・尚謙・義村王子朝章(ちょうしょう)(尚灝王六男)

三世・向志禮・義村按司朝明(ちょうめい)(奥武親方朝昇五男)

四世・向明良・小城按司(義村)朝眞(ちょうしん)

四世・向明徳・義村朝義(ちょうぎ)


 さて、このブログで紹介したいのは、次の二人である。

(1)三世・向志禮・義村按司朝明(ちょうめい)

 道光十年(1830年、天保元年)庚寅九月十一日生

 明治三十一年(1898、光緒24)戊戌19日逝去、享年69

(2)四世・向明良・小城按司朝眞(ちょうしん)

 同治二年(1863、文久3)癸亥七月十九日生

 明治三十九(1906、光緒33年)丙午旧49日逝去、享年44


 琉球を襲った凶作の時代と廃藩(廃琉)置県の時代を生きた、この親子のことを記録したものは少ない。家譜と東風平村史などに見えるだけである。疲労困憊した東風平間切を復興させるために日夜活躍する姿を村史などには明確に示されている。陣頭指揮に立つ三世向志禮・朝明の姿には東風平魂を彷彿とさせるものがある。また、亀川(親方)盛武が中心人物であった頑固党は、日清戦争に清国が敗れるに至って亀川は活動から手を引くようになったが、志禮・朝明が最後の頑固党首領となり、脱清人として独立運動を展開したが福州で客死した。

 一方、小城を名嶋とした四世・明良・朝眞は父志禮・朝明と行動を共にして、やはり福州で客死した。

 

 昭和八年(1933)、四世・明徳・朝義は神戸経由で福州に渡り、亡父及び亡兄の遺骨を洗骨した上で、平良本墓に移葬した。福州に客死してから本墓に埋葬されるまで、35年という長い年月が流れて行った。

(改定:平成25年7月31日)